罪と罰

バリアフリー観察記2003年

罪と罰

 学校で教わったことが、日常生活の中で「直接的に役立った」と実感することはなかなかないけれど、大学時代の講義で聞いた一言を、折に触れて思い出すことがある。
「授業で指導する内容を罰として使ってはいけない」
 保健体育の教職免許を取得するためのクラスでの教えだった。

 遅刻をしたら腕立て伏せ30回、体操着を忘れたら腹筋運動20回、片付けをサボったらグラウンド3周……。これらの光景は、体育の授業や部活動では日常的だ。ところが「健康のために走りましょう」「筋力を付けるために腕立て伏せや腹筋運動をしましょう」と勧めている教師が、その運動を罰として与えたらどうなるか――。走ったり筋力を付けたりするための運動は「つまらないこと」「いやなこと」だと教えているのと同じで、自分が指導する体育を自分自身で否定することになる、というわけだ。

 この教えを思い出すようになったのは、子どもが3歳を過ぎたころからだった。床に転がって指をしゃぶり、バブバブとしていた息子たちが話せるようになり、自己主張を始めると、兄弟げんかは四六時中に起こるし、食事の準備ができてもテレビを消さずになかなか食卓に付かないことはしばしばだ。そんなとき、ついついこんなことを口にしてしまう。
「言うことを聞かないと、もうお菓子を買ってやらないぞ」
 本当は、けんかをせずに譲り合うこと、食事のときはそろって食べ始めることを知ってほしいと思っているのに、“言うことを聞く”と“お菓子を買う”という無関係なことを結び付けることで、本当の気持ちが伝わらないばかりか、お菓子を買ってもらうために言うことを聞く卑しい精神の持ち主に育ってしまいそうだ。

 著名人のチャリティーゴルフ大会が行われたり、漫才コンビによる高齢者施設への慰問が話題になったりするのをテレビで見ていると、こういったことがきっかけになって新しく関心を持つ人が増えればいいとは思う。ところが、チャリティーの方法がミスショットの罰金だったり、慰問の理由が暴力事件の反省の気持ちを表すためだったりすると、チャリティーや慰問活動に対して誤ったイメージが生まれなければいいけれどと、気になってしまう。

 殴ったり蹴ったりという暴力を使うことの問題点は明らかで分かりやすい。ところが、無関係なことを結び付ける言葉による罰や、福祉活動や奉仕活動といった社会的な貢献を使った罰が持つ「誤ったメッセージをすり込んでしまう」という盲点は、なかなか気付くことができない。
 罰は、1度使うと次からはそれ以上に重く与えなくては変化が出なくなるという副作用を持つ。「お菓子を買ってやらないぞ」「遊んでやらないぞ」「外に連れていかないぞ」……。そんなことがついつい口を突いて出そうになるたびに、罰の使い方の難しさを感じてしまう。

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Last Update : 2003/03/18