現実と錯覚

バリアフリー観察記2003年以降

現実と錯覚

 テレビのリモコンを探すのは、もはや日課と言っていい。本棚の中、円卓の陰、座布団の下などなど、部屋中を探し回った揚げ句にテレビの横に置いてあったりすると、見つかった嬉しさ以上のうっぷんが込み上げてくる。
「リモコン探知機は売っていないのか!」
 思わずそう叫びたくなりながら「目が見えなかったら、物探しは大変だな」と思ったりした。画びょうを床に落としたらどうしよう。見つけられなければいつまでも不安だし、小さな子どもがいればなおさら放ってはおけない。指輪やピアスを床に落としたら、見つけるまではスイスイと掃除機をかけることもできなそうだ。

 何種類もの商品が並んでいる自動販売機を前にして、見えない人はどうやって好みのジュースを買うのだろうか。中華料理店で醤油と酢の瓶を間違えないためには、においでかぎ分けるしかないのだろうか。玉ねぎをキツネ色に炒めたり、魚の焼け具合を見極めたりするにはどうしているのだろう? 見えるときにはできた“一目ぼれ”なんてことはできなくなるのだろうか。生まれつき見えなかったら、寝ていても夢を見ることさえできないのだろうか。そんなことを考えていると、答えを知っている人たちについて、ふつふつと興味が湧いてくる。

 複雑な形をした壺の輪郭に向かい合う男女の顔が隠れていたり、婦人の後ろ姿だと思っていた絵をじっと見ていると老婆の顔が浮かび上がってきたり……。だまし絵を見ていると、自分に見えているものが物事のほんの一面でしかないことを実感する(Link)。と同時に、目の錯覚が心を錯覚させていることもあるはずだ、と思えてくる。

 好きな歌手のヒット曲を聴きながら、ふと、息継ぎの音が耳に入ったことがあった。歌にだけ集中しているときには聞こえなかったけれど、以来、誰の歌を聴くときにも息継ぎの音が気になるようになった。
 自分の目で見たり耳で聞いたりしたことはどれも現実だけれど、それは必ずしも常に物事の真実であるわけではない。正面と横から見た顏を1枚で表現するピカソの絵のように、ものの見え方は人によってまちまちだし、同じ本を読んでも、時間が経ってから読み直してみると、以前とは違った感想を持ったりもする。

 物事を自分以外の人の立場から見ることは簡単ではないけれど、違った視点からも見ることができるようになれば、目の前の世界は何倍にも広がっていく。それとともに、知らず知らずのうちに持ってしまった誤解や偏見といった心の錯覚も、減っていくに違いない。

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Last Update : 2004/02/28