すぐそこにある異文化

バリアフリー観察記2003年以降

すぐそこにある異文化

 春は出会いと別れの季節。この時期になると、卒業生を送り出すためのコンパで先輩に叱られた学生時代の出来事を思い出す。乾杯直後に「好きなものを注文してよい」ということになり、あまりの空腹にお茶漬けを頼んだときのことだった。
「最初からお茶漬けを頼むバカがいるか!」と先輩。
 晩酌の習慣がない両親のもとで育った自分には理解できなかったが、お酒の飲み方には暗黙のルールがあると知った瞬間だった。だが、知人宅にお邪魔してお酒が振る舞われ、つまみでお腹が膨らんできたころに「そろそろご飯はいかが」などと勧められると、今でも不思議な気分になってしまう。

 東京で暮らし始めたころ、昼間でも玄関の鍵を閉めている家が多いことには驚いた。結婚直後、会社に「行ってきます」と玄関のドアを閉めた途端に「ガチャッ」と音がしたときには、言い様のないショックを受けた。妻にとっては何気ない当前のことでも、慣れるまでしばらくは、締め出されたような、なんとも空しい気持ちがしたものだ。

 妻はお茶や能に関心があるが、スポーツには全く興味がない。駅伝やマラソン中継を真剣に見ていると、ただ走っている選手をずっと見ていて「何が楽しいの?」といった感じだ。重たいハンマーを1センチでも遠くまで投げるために筋肉を鍛えたり、心臓が破裂しそうなほど苦しい練習をしてマラソンを走ったりすることの意味はわからないしい、100m競走のタイムが0・01秒縮まるかどうかで一喜一憂している姿は、到底理解できないという。

「異文化」と聞くと「外国」という言葉が対となって浮かんでくる。コンビニやファーストフード店で外国人の店員さんを見かけるようになって、彼らが日本について知ろうとするのと同様に、自分も国際的な感覚を身に付ける必要性があると実感する。だが、そのたびに思うのは、外国よりももっと身近なところに、自分とは異なる文化を持っている人たちがたくさんいる、ということだ。
 高齢者は日々増え続けているし、積極的に街に出る障害者も増えている。彼らの価値観や生活様式は自分とは違う点が多々あって、学習や経験を通してでなければ知ることはできない。そう考えると、外国のことより先に知るべきことがあるはずだ、と思えてくる。

 私は、妻からすれば夫であり、女性からすれば男性だ。お酒を飲む人から見れば下戸だし、都会で生まれ育った人から見れば田舎者だ。このように、人の立場は相手によって相対的にコロコロと変わる。不特定多数の人が集まる街の中では、ドライバーに対して歩行者、店員さんに対して客といったように、さらに多くの立場が自分の中に同時に存在することになる。

 島国育ちの日本人は、異質なものを排除したがると言われることがある。だが、最も身近な異文化は「私とあなた」という個人と個人の間にあると考えて他者との違いに興味を持ち、楽しむことができれば、相手のことをより知りたいと思えてくる。国際教育や高齢者・障害者について知り、尊重するための教育は、そういったことの延長線上にあるのではないだろうか。

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Last Update : 2004/03/26