自分より機械を信じるもう一人の自分

バリアフリー観察記2003年以降

自分より機械を信じるもう一人の自分

 駅前の宝くじ売り場で、自分が、人よりも機械を信用することがあるんだと気がついた。連番のくじにパパパッと目を通したおじさんは、愛想よく300円を差した。瞬時に「7等」と見極める手際のよさは、熟練を感じさせた。だが、あまりに手際がよすぎるのは考えものだ。当選! を見のがされてはいまいかと、不安になる。3億円とは言わず、1000万円でもいい。100万円だって構わない。10万円でなくても、1万円だって喜んでしまいそうだ。そんな思いの詰まった当選券をスルーされてはたまらないと「機械に通して、ちゃんと確認してよ!」と言いかけたとき、いつの間にか自分のなかに生まれていたもう一人の自分に気がついた。

 パソコンを駆使して、大量の計算をこなす術(すべ)を身につけた。そのことで、自分の許容量を越えた計算をする機会が増えた。以前なら、検算をしなくては不安でたまらなかったが、今では、パソコンが出した答えを疑うことなく、日々の仕事に勤しんでいる。慣れない電卓やソロバンでする検算は正確ではないし、何百、何千、何万倍もの効率化やスピード化のメリットがなくなってしまう。表計算ソフトが出した結果をいちいち疑っていたら、次の仕事に支障が出てしまうという現実もある。

 どうしてそうなるのかは知らないけれど、使うと便利――デジタル家電は、まさにそんなブラックボックスだ。でも、便利だとは感じながらも、以前にはなかった不安を感じることが増えた。ICレコーダーで会議や発表会の内容の録音していると、ちゃんと録音できているのか、いつも不安になる。テープが巻き取られていく様子が見えるカセットレコーダーと比べて、どうも録音されているという実感が乏しいのだ。デジカメのシャッターを切っても、「カシャッ」というシャッター音や「ウィーン」というフィルムの巻き上げ音がしないと、写真を撮影したという実感が持てなかったりもする。
 ICレコーダーやデジカメの便利さに魅力を感じながらも、カセットレコーダーやフィルムカメラのようにアナログなものに安心感を感じている。生身の心身もまた、自分にとってはブラックボックスだ。

 僕は今、日々、自分よりも機械を信用しながら仕事をしている。パソコンの情報処理スピードの速さと圧倒的な計算の正確さに、抵抗する意欲さえなくしている。
 以前は1週間かけてようやく終えていた数字の分析を、パソコンを使って1日で仕上げたときの“充実感”や“満足感”は、アナログな方法しかなかった時代よりも薄かった。にもかかわらず、家のなかでは、フィルムカメラが埃(ほこり)をかぶるようになった。居間のビデオデッキが壊れたときには、迷わずにビデオテープ不要のハードディスクレコーダーに買い替えるとも思う。
 こんな作文を書いている横で、小学生の息子たちは自由にキーボードを操りながら、「ムシキング」(Link)のサイトでゲームの攻略方法を調べている。アナログなものが次々とデジタル化されているなかで育っている息子たちは、どんなものにぬくもりを感じたり安心感を覚えたりするようになるのだろうか。

●関連作文
「思考のブラックボックス化」Link
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Last Update : 2005/10/20