柔軟な心

バリアフリー観察記2002年

柔軟な心

『みんなで跳んだ』(小学館)という本がある。運動会を翌日に控えた中学校のあるクラスで起こった出来事を紹介したものだ。学級対抗の大縄跳びで優勝候補のこのクラスには、一人だけうまく跳べない子がいて、運動会前日に緊急のクラス会議が行われた。
 彼を入れるか外すか――。
「勝てなくなるから入れない」
「仲間外れはいやだから一緒に跳びたい」
 長い話し合いの末にも平行線をたどった会議を方向付けたのは、議題の主人公である彼の一言だった。
「僕は跳びたい」

 運動会当日、友人が彼の脇に手をまわして一緒に跳ぶと、1回だけ成功。その後も、失敗を繰り返しながらも徐々にタイミングが合っていき1回、2回、3回……。最後に彼は、一人で跳ぶことにさえ成功する。合計71回。順位は5クラス中の5位だった。
 運動会の様子はホームビデオに収められていて、何回も跳び続ける他のクラスとは対照的に、1回跳ぶごとに彼と跳べたことに大喜びしている生徒たちの姿は、何度見てもグッとくるものがある。

『みんなで跳んだ』を読んで最も印象に残っているのは、クラスが一つにまとまったことでも、跳べなかった生徒が一人で跳べるようになったことでもない。クラス会議で「勝てなくなるから彼を入れない」という意見が出たことだった。今の自分なら、心の中にしまってしまうであろう本音だ。それだけに、残酷なほど純真無垢な気持ちには、とても強い力を感じてしまう。

 他人への理解について考えるとき、子どもの時期の過ごし方に関心が向かう。私自身、手足が不自由だったり、目や耳が不自由だったりする知人が日常的に身近にいたことがないけれど、そのことが、障害がある人に対する態度をぎこちなくさせている理由だと感じることがある。
 思いやりや理解といったものが生まれ付きのものではないと考えたら、先入観のない柔らかな心を持った時期を、同じような人たちとだけで過ごすことがとてももったいなく思えてしまう。
 障害者との交流会や作品の展示会、発表会だけでなく、日常の中で理解し合える環境があればと思う。

 教科書の内容を覚えることは自宅でもできるけれど、子どもたちが集まる学校でそういった経験の場が実現すれば、今は奇跡だと思えることが、必然として起こるようになるかもしれない。

 幼稚園でクリスマス会が行われた夜、4歳の息子はサンタさんからアメ玉をもらったと言っては自慢げで、握手をしたと言っては大興奮だった。もちろん、どなたかのお父さんが白いヒゲを付け、赤い服を着て登場したわけだけれど、息子にはそれが本物に見えていた。
 しばらくして、息子と一緒に湯ぶねにつかっていると「お父さんの体はアギトのように筋肉がいっぱいだね。すごいね!」と、目を丸くしていた。アギトとは、当時、子どもたちの間で大人気だった仮面ライダーのキャラクターだ。むしろ緩み気味だと気になっていただけに、うれしくなって思わず頭をなでてやった。
 ところが息子は、腹を指さして「ほら、こんなに」と。皮膚が緩んでできた横に走る筋は、まるで筋肉が縦横に割れているアギトの腹筋のよう……!?

 とにもかくにも、ときに残酷なまでの純真無垢さを発揮する子どもの気持ちを、大切にしたいと思う。そう「パパはアギトだ」と思っているうちに、息子に教えたいことがたくさんある。

トップへLink

Last Update : 2003/02/24