天才と障害

バリアフリー観察記2002年

天才と障害

 妊娠すると味覚や臭覚が変わるらしい。正確に言えば、敏感になるようだ。妻の場合は、普段はおいしく食べていたほうれん草のおひたしを苦く感じるようになったり、きれいなはずのトイレのニオイが気になったりした。子どもを守るための本能的な働きが、そうさせるのかもしれない。

 この現象を知ったとき、ふと「能力が優れていることが、逆に不便を生むこともあるのではないか」と考えた。妻のような現象が日常的ならどうなるだろう。ほとんどの人が気にもしないような臭いや味が気になるようだと、場合によってはまわりの人たちとはうまくやっていけなくなることもありそうだ。
 聴覚が発達している人は、本来なら聞こえないレベルの音まで聞こえて頭痛になったり、テレビの音がうるさ過ぎると感じて周囲の人とズレを感じるかもしれない。絶対音感を持っている人は、何気ない日常の音であっても、音階としてはバランスを欠いていて「不快な音」と感じてしまうことがあるという。ごく普通の人には見えないものまで見えて疲れたり、多くの人は忘れてしまうようなことまで忘れられずに悩んだりする人だっているかもしれない。

 矢野祥(やの・しょう)君という男の子がいる。彼は9歳でアメリカの大学に合格した天才児で、その略歴には驚くばかりだ。1990年にアメリカで生まれ、4歳になった95年に2年飛び級で小学校に入学。翌96年には天才児スクールに転入し、8歳になった99年にはSAT(大学入試全国統一テスト)で1500点を記録。2000年には9歳で大学に進み、将来は医学の研究を進めたいのだという。

 彼とその父母の著書『僕、9歳の大学生』(祥伝社)を読んでいると、祥君の計り知れない能力に怖ささえ感じるとともに、両親の手記は、障害児の親御さんの文章と共通点が多いことに気付く。
 例えば、両親は初めから、祥君を日本の学校に入れようとは思わなかったという。日本の教育システムが祥君には合わないと感じたと同時に「息子のようなケースの子どもをのびのびと育てる環境は、残念ながら日本にはない」としている。また、ごく平凡な両親の間にスーパー天才児が生まれてきたことについては「どうやって育てていったらいいのか」との戸惑いから、専門家に相談したり、専門書を読んだりしたことを記している。これって、障害児のお父さんやお母さんと似ているどころか、まったく同じだ。
 そして、本の表紙には次のようなサブタイトルが添えられている。
『父・母・本人「常識」との戦い』

 障害がある人が感じている不便さは、能力が平均より劣ることが理由だと思っていた。でも、逆に能力が優れていることでも、不便を感じている人たちがいた。結局、どのくらいの不便さを感じるかは、能力が高いか低いかではなく、平均からどれだけ離れているかによるわけだ。このことは実に意外な事実だった。

 人の能力の分布を紙に一筆書きすれば、中央が盛り上がってすそ野が広い富士山のようになるだろう。社会の体制がすそ野を広くカバーしていなければ、レーシングカー並みにチューニングされて生まれてきた人や障害を持っている人たちは、不便を感じることになる。
 祥君のお父さんは本の中で「特別なことを受け入れることが、アメリカでは不自然ではない」としている。言い換えれば「アメリカの社会はすそ野を幅広くカバーしている」ということになるのだろう。
 すそ野を広くカバーすれば、山は安定する。逆に狭い範囲だけを支えたのでは不安定になってしまう。その意味では、障害者への対応が進んでいるとされるアメリカが、祥君のような極端な天才児にも対応できるのは理にかなっているのかもしれない。重度の障害者にも対応できる社会は、極めて高い能力を有する人材を活用できる社会ということもできそうだ。

 大リーガーになった日本人選手がこれまで以上にのびのびとプレーしている様子を見たり、優れた日本人研究者がアメリカの大学に移ってさらに高度な研究を続けたりしていることを思い出しながら、ニッポンの将来、なんていう少し大げさなことを思ったりした。

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Last Update : 2003/02/24