瞬間的なバリアフリー、持続的なバリアフリー

バリアフリー観察記2002年

瞬間的なバリアフリー、持続的なバリアフリー

 近所の市立図書館にあるジュースの自動販売機は、結構いかしている。小銭の投入口に受け皿が付いていて、硬貨を無造作に投げ入れるとスルスルと投入口まで滑り落ちていく。ちょうど、口の狭いビンに水をこぼさずに入れることができる漏斗(じょうご)の要領だ。10円でも50円でも100円でも500円でも、必要なだけ一気に入れることができる。その使い勝手のよさに、初めて利用したときには返金して、もう一度お金を投げ入れてみたりした。

 久しぶりに本を借りに行くと、自動販売機が新しいメーカーのものに入れ替わっていた。機械も品ぞろえも変わっていて、同時に、小銭投入口に受け皿はなく、コインを1枚ずつ入れていくどこにでもあるタイプのものになっていた。
 受け皿付きのものは神社のおさい銭のように簡単に投げ入れることができるため、手や指先が不自由な人も小銭を落とすことがなく、弱視の人が入れそこねて落としたコインを見付けられなくなることもない。小さな子どもも上手にお金を入れることができるし、手袋をしているときにも便利だった。「自分が住んでいる市はそういうタイプをあえて設置しているのだ」と、少し鼻が高いようなうれしい思いがしていただけに、何とも残念だった。

 銀行のATMは、1990年までは数字ボタンを押して金額を指定するタイプだった。電卓やパソコンのキーボードと同じように「5」のボタンの上には小さな凸印が付いていて、指の感触を頼りにすれば、その右が「6」、左が「4」、上が「8」、下が「2」といった要領で、見えない人でも正確に暗証番号や金額を入力できた。ところが、そのATMがタッチパネル式に変わって、そんな配慮はどこかへ消えてしまった。

 タッチパネルは狭い画面の中にたくさんの機能を詰め込むことができる上に、プログラムを書き換えるだけで簡単に新たな機能を追加できることから、すべての銀行が採用している。でも、画面の中に表示される数字ボタンを視覚障害者は使うことができない。多少見える弱視の人でも、画面に顔を近付けて文字を読もうとすると「恐れ入りますが、最初からやり直してください」と宣告されたりする。鼻で余計なボタンを押してしまうのだ。

 窓口に行かなくても現金を出し入れできるATMはとても便利だ。週末でもお金を下ろせたり利用時間が延長されたり、24時間利用できる端末がコンビニに設置されたりと、どんどん便利になっている。でも、どんなにサービスが拡大しても、視覚障害者には使うことができない。利用する唯一の方法は、近くにいる人にカードを渡して大切な暗証番号を伝えることしかない。

 今はバリアフリーでも、その後もずっとバリアフリーであり続けるという保証はない。冒頭の自動販売機でいえば、機械を設置する市の担当者が小銭投入口の受け皿を便利に感じている人がいることに気付かなかったのかもしれないし、人事異動があったのかもしれない。ATMにしても「5」に付けられた凸印を必要としている人たちがいることに銀行の担当者が気付かなかったのかもしれないし、気付いていても、割安な機械を選んだのかもしれない。

 こう考えると、バリアフリーには「瞬間的」なものと「持続的」なものがあることになる。流行や思い付き、または偶然に実現したものは「瞬間的」なもの、そこに携わる人の理解が進んで実現したものは「持続的」なものといった具合だ。瞬間的なバリアフリーは時間が経てばすぐに以前に逆もどりしてしまうけれど、持続的なバリアフリーは定着し、より良いものに改善されて発展していく。

 バリアフリーというと何か特定の「形」があるように思っていたけれど、実はそうではなかった。物理的なバリアがなくなることと同じくらいに、人の理解や心が問われている。

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Last Update : 2003/02/24