不便さの正体

バリアフリー観察記2002年

不便さの正体

 マンションの出入り口にある階段の横には、スロープが付けられるようになってきた。利用者は、車いすを使っている人だけかといえば、そうではない。それまでは階段を使っていた人でも、ベビーカーを押すようになると毎日スロープを利用するようになる。大きな荷物を台車に乗せて運ぶ宅配便のドライバーも、スロープをとても便利に感じている。引越で荷物を運び出すときも、スロープがあるかないかでは大変さがまったく違う。
 駅にエレベーターを設置することは車いす使用者の強い要望だけれど、ゴミがたくさん入ったカゴを引っぱりながら駅を清掃している人たちも、階段でカゴを引き上げながら同じことを考えているはずだ。

 不便さの原因って、つまるところ立場の違いではないかと思う。文字だけのメニューが日本語に不慣れな外国人にとって不便なのは、日本人か外国人かという立場の違いが原因。食堂で箸しか用意されていなければ不便に感じる外国人は多いだろうし、レストランでナイフとフォークしか用意されていなければ、食べにくいと感じる高齢者は多そうだ。同じ場面に遭遇しても、立場によって、それを不便と感じたり感じなかったりするわけだ。

 バイクは以前、男性中心の乗り物だった。デザイン自体も男性的だったし、何より、シートにまたがって乗るというスタイルに女性は抵抗を感じていた。ところが、1977年にスクーターが登場したことで時代が一転する。ステップの上に足をそろえて乗れることから、スカートのまま自転車代わりに利用する人たちが一気に増えた。
 ソフトでコンパクトなデザインのスクーターは当初、女性の乗り物といった印象だったけれど、自転車並みの扱いやすさと便利さから、男性が乗るようになるまでに時間はかからなかった。スクーターは、バイクに対する男性と女性の立場の違いを超越したわけだ。

 街を観察しながら、自分と障害がある人との違いは男性と女性、若者と年配者、田舎暮らしの人と都会人、日本人と外国人といった人たちの間にある違いと同じだと思えてきた。もっと言えば私と妹、私と父母、私と子ども、私と妻といった個人と個人の間にある違いだ。
 折しも現代は「個の時代」と言われている。究極の異文化は「私とあなた」の間にある、という時代だ。そう考えたら、障害の有無という大まかなくくりで人を区別することなど、まったく意味がなくなる。

 男性は、女性がいるから男性でいることができる。若者は、高齢者がいるから若者として振る舞うことができる。それもこれも、結局は相対的なものでしかない。私は、高校生のときまでは走るのが速かったけれど、大学の陸上部では一番足が遅かった。でも、大学で一番足が速かった友人も、もっと大きな大会では一番になることができなかった。障害者とか健常者といったものも、それと同じじゃないだろうか。
 広い世界を見まわしてみれば、雨が降って困る人もいれば喜ぶ人もいるし、食べ物がなくて死んでしまう人がいるかと思えば食べ過ぎて命を縮めてしまう人もいる。
 他人事に思いがちなバリアフリーというテーマは、ちょっとしたきっかけで自分自身の生活を左右する身近な問題になるはずだ。

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Last Update : 2003/02/24