組織の責任、個人の責任

バリアフリー観察記2003年

組織の責任、個人の責任

 週刊誌の中吊り広告やテレビを見ていると、何とも不思議な感覚を持つことがある。

 シドニー・オリンピックの女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子選手は、過酷なレースの直後にもさわやかな笑顔でインタビューに応じ、一瞬にして「時の人」となった。テレビや新聞、あらゆる雑誌が彼女を取り上げ、国民栄誉賞の受賞が決まったことでブームは一気に頂点に達した。

 ところが、3カ月を過ぎたころから、週刊誌では奇妙なタイトルの記事が掲載されるようになった。「貴女にはハデなヘアースタイルより走っている姿が似合う」「高橋尚子の乳房が異常膨張中!」「高橋尚子が狙われた! 卑劣『全裸盗撮』の衝撃映像」……。いずれも、自社のスポーツ雑誌で高橋選手を取材したり、漫画本を出版したりしていた出版社の雑誌だっただけに、違和感を感じた。

 元アナウンサーの不倫がスクープされたという話題がワイドショーで取り上げられたとき、進行役のアナウンサーは「元同僚で彼女のことをよく知っているだけに、何も言えません」と話していた。日々、悲惨な事件や事故についてコメントを挟みながら紹介している姿を思い浮かべると、その違いすぎる態度が気になった。

 こうしたことは、読者や視聴者といった第三者の立場にいるとさほど気にはならない。でも、報道される側の個人にとっては、実に身勝手で理解できるものではないだろう。個人と個人の間で通常は起こらないことが、組織と個人の間では、なぜか簡単に起こってしまう現実――。

 会社で事件や事故が起こったり、警察で不祥事が起こったり、病院で医療ミスが発生したり、福祉施設で虐待が行われたり――。それらについて謝罪したり説明したりする席には、組織の責任者はいるものの、出来事を一番知っているはずの当事者が同席することはない。組織としての責任は明確になるものの、当事者の顔は最後まで見えてこない。

 個人が組織を訴えて「原告全面勝訴」というニュースを聞いても、どこかしっくりとしない違和感が残る。公的な施設や組織が被告の場合、それを所管する都道府県に慰謝料の支払いが命じられたりするからだ。一見、責任の所在が明らかになったようだけれど、その慰謝料は、一体だれが支払うのだろう。

 社会、環境、世論……。大きな問題が持ち上がったとき、原因の所在としてそんなものをついつい口にしてしまう。一時的にはそれで気持ちは収まるものの、問題の解決法を考えてみると、結局は答えが見つからないことがある。社会や環境、世論などの総称をあげつらってみても、大ざっぱすぎて本質が見えてこないのだ。

 9・11のテロ事件直後、アメリカ国内ではイスラム教関係の施設やアフガニスタン料理店などに嫌がらせが相次ぎ、その矛先はイスラム教徒個人にも及んだという。北朝鮮による拉致事件が明らかになった昨年9月以降は、在日朝鮮人学校の生徒に対する嫌がらせが相次いでいるともいう。そんなニュースを聞くたびに、悪いのはイスラム教という宗教なのか、北朝鮮という国なのかと考える。組織や集団でとらえれば確かに理解はしやすいけれど、根本的な責任が犯罪の実行を命令したり行ったりした当事者にあることを、自分自身、ついつい忘れてしまいがちだ。

 雑誌の編集部は、同じ出版社の中にあってもそれぞれが完全に独立した存在で、ある雑誌では応援している選手を、別の雑誌がバッシングしたりするようなことが起こる。あまたある会社の中でも出版社という組織は、自分自身の中で矛盾が生じることが当たり前の珍しい存在だと思う。

 そういう組織に身を置きながら、報道される側が感じる不快感は、出版社という会社の責任なのか、編集部の責任なのか、はたまた編集者の責任なのか、と考えている。

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Last Update : 2003/03/06