見えないものが見える視機能

バリアフリー観察記2003年

見えないものが見える視機能

 視力検査では、0・1とか2・0といった数字によって見え具合が表される。より小さいものを判別できるほど視力が高いことになっている。
 ところが、スポーツの世界では目の機能をさらに細かく分けて測定する。剛速球を的確にとらえて打ち返すために必要な「動体視力」、距離感をつかんで上手にボールをパスするために必要な「深視力」、複数の相手選手の動きを一瞬でとらえるために必要な「瞬間視力」のほか、まっすぐに向かってくるものの動きをとらえる視力や、目で見た状況に合わせて素早く反応するための視力などもある。野球やサッカー、ボクシングといったスポーツのトップ選手たちは、これらの能力が極めて高いことが証明されている。小さいものを見ることができるかどうかという「静止視力」は、その中の一つでしかない。

 これらの視力は目が見えることを前提にしているけれど、小さいものが見えたり一流のスポーツ選手なみにさまざまな機能が優れているからといって、目の前にあるものすべてのものが見えるとは限らない。
 帰省して山菜を取りに行くと、私が片手でつかめるほどしか見付けていなくてもおじのポリ袋はすぐにいっぱいになる。バードウォッチングに出かけると、父は雑木林の中で枝に止まっている鳥を次々と指さしながら泣き声をまねてくれるものの、私はそのほとんどを見付けることができない。
 彼らは、山菜が生える場所や鳥の習性を知っていて、それを頼りに枯れ草の下に生えているウドを見付けたり、手のひらに乗るくらい小さなメジロを見付けたりしている。

 以前、自分は障害がある人について無関心なのだと考えていた。特に手を貸そうとは思わなかったし、現状の問題点について気にすることもなかった。だが、今から思えば、無関心である以前に障害者について何も知らないだけだった。それが、障害者について少し知ると、電動車いすに乗っている人を見れば「外出中にバッテリー切れになったらどうするのだろう」、聴覚障害者を見れば「夜中に家族が倒れたらどうやって救急車を呼ぶのだろう」と思ったりするようになる。

 網膜には映っていても見えなかったものが、知識を得ることで見えるようになったりこれまで以上に想像力が働くようになったりする。この不思議な働きを測定する項目は視力検査にはないけれど「知的視力」と呼びたいと思う。

 視力検査は、目が見えることを前提に行われている。その意味で、現在の検査は全盲の人には無縁の存在だ。ところが、知的視力は全く見えない人にも存在する。しかも、目の機能は年を重ねるごとに衰えていくものの、知的視力は経験を積めば積むほど高くなる。
 不自由なく本を読んだりテレビを見たりすることができるために、自分には全盲の人よりたくさんのものが見えていると思っていた。だが実は、彼らには見えているのに私には見えていないものがあるのではないか、と思い始めている。

◎関連の作文Link
トップへLink

Last Update : 2003/03/14