自分の子どもに障害があったら、普通学校と養護学校のどちらに通わせるだろうか。養護教諭の方の話を聞きながら、そんなことを考えたことがあった。
「1番目は普通学級、2番目は心身障害学級、3番目は養護学校――そんなふうにランク付けをしている保護者もいます」と先生。
確かに、3番目よりは2番目、2番目より1番目の方がより高等な教育を受けられそうな気がする。先生によれば、知的障害がある子どもが中学校まで普通学級に通い、結果的に、何年間も必要な教育を受けられないまま過ごしている例は珍しくはないという。
正月の箱根駅伝を見ながら、ふと、あのときのことを鮮明に思い出していた。
「余裕をもって走っていると、ペースを上げようと思っても上げられなくなることがあります」
マラソンの名選手だった瀬古利彦さんが、箱根駅伝の解説のなかで発した一言。
スピードを出しすぎてペースを上げられなくなる、というのなら理解できる。だが、余裕があってもスピードを上げられないというのは、なんとも不思議な話だ。
実は、選手はそれぞれ、自分が一番走りやすいペースやリズムを持っている。そのため、速いスピードで走ることに慣れている選手がゆっくり走らされると、必要以上に体力やエネルギーを消耗する。その結果、後半になってもペースを上げられずにレースを終えてしまう、という不思議な現象が起こったりする。
ペースやリズムが違いすぎる集団のなかにいると、自分が持っている能力さえ発揮できないことがあるというのは、実に意外な事実だ。
学校に優劣をつける気持ちは、よく理解できる。自分自身、高校や大学を選ぶときには、より偏差値が高いところに行きたいと思った。3番よりは2番がいいし、2番よりは1番になりたいと思っていた。だが、自分の能力を伸ばすという点では、偏差値という自分と無関係な尺度をもとにした順番を気にすることは、あまり意味がない。普通学級に通うことで得られるメリットもあるのだろうけれど、それによって本来持っている力まで発揮できなくなるとしたら、デメリットは大きそうだ。
文化祭を前にした高校3年生のとき、私は受験勉強を優先して準備には携わろうとしなかった。だが、短編映画の撮影に精を出し、下校後もだれかの家に集まって遅くまで編集作業を続けている人たちがいた。受験のための1年と割り切っていた当時は気付かなかったが、今となっては、精いっぱい取り組んでいた彼らの充実感を、うらやましく思ったりする。
私が得た“現役合格”というアドバンテージは、果たしてどれほどのものだったのだろう。彼らの中には現役で志望校に合格した人もいるし、予備校に通って進学した人もいる。そして今、私は彼らに対して、何かのアドバンテージを持っているのだろうか。
同じ学校に通っても、そこでの過ごし方は人それぞれに違っている。学校を「一番を決めるところ」と考えるか、「能力を伸ばすところ」と考えるかは、本人や保護者次第だ。それによって、得られるものは自ずと変わってくる。どちらを選んでもそこに優劣はないが、マラソンに例えられる人生というものが、一つの尺度でナンバーワンを決めるものではないことは、明らかだ。
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