失恋の教訓

バリアフリー観察記2003年以降

失恋の教訓

 失恋の経験は、人並みにある。思いが通じないことにも、それなりに傷ついてきた。だがそのたびに、常に解決できない疑問が残った。自分は、どれだけ彼女のことが好きだったのか――。
 好きな人のためなら命を懸けることができるという人もいるし、それを実行する人もいる。でも自殺というものは、好きの度合いを表す尺度にはなっていない気がしていた。もっと我慢に耐える何かでなければならない。

 そんなわけで、何度目かの失恋の夜、彼女のために何十時間寝ずにいられるかを測定することに。死ぬほどに好きだったならば、48時間や72時間は当たり前で、気絶するまで起きていられるはずだった。ところが、答えは翌朝、いともあっけなく出てしまったりする。恋愛とはそんなものなのか、それとも、自分が浅はかすぎるのか…。
 以来、自分を大切に思う気持ち以上に他人を思いやることができるのか、という疑問を持つことになった。

 正月には、毎年のように「自分中心ぶり」を実感する。1週間ほど前にパソコンを使って金太郎アメのような年賀状を次々と出力しておきながら、元旦には、丁寧な添え書きのある年賀状をとても嬉しく思ったりしている。そういう自分の態度に気付くたび、失恋の夜にグッスリと眠り込んだ日の疑問が蘇ってくる。

 あるとき、トイレのカギを締めた瞬間に、ふと考えた。自分は今、だれのためにカギを締めたのだろう。自分が恥ずかしい思いをしないためか、お客さんに気まずい思いをさせないためか。その時は、妻の知人が遊びに来ていて、恐らく他人のためにカギをかけた最初だった。
「自分のため」と「人のため」。同じ行動でも、その目的が変わったことを実感したことがもう一つある。それまでは自分のために締めていたシートベルトを、子どもが産まれてからは、家族のために締めるようになったのだ。同じ行為でも、その心の中は正反対だ。

 自分の生活や人生そのものを、他人のために奉げる人がいる。その対極にある「自分中心」という言葉には、常々マイナスのイメージがあった。でも、死ぬほどに思えた失恋を経験しても、最後は疲れた体を休めることを優先してしまうように、自分を一番大切に思うのは決して不自然なことではない。
 
 貧しい人たちの中でも最も貧しい人のために人生を捧げたマザーテレサのようになることは、自分にはできそうにない。でも、自分を一番大切に思いながらも、自分以上に他人を思いやる機会を一つずつ増やしていくことなら、できるかもしれない。できないこととできることを自分の中ではっきりさせれば、無理をせずに他人を思いやることができるのではないか。思いやりの方法やレベルは、人それぞれに違っていて構わない。

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Last Update : 2004/02/01