天動説と生命倫理

バリアフリー観察記2003年以降

天動説と生命倫理

 男女の生み分けができたり、生まれてくる前に難病の有無を診断できたり、クローン動物が誕生したり……。生物がもつ遺伝子の研究が進んで、これらのことが技術的には簡単にできるようになっている。研究が生命の本質に迫る領域に入り込むようになったことで、単にできるかできないかではなく、してもいいのか、すべきでないのかといったことが、考えられるようになっている(Link)。

 日本政府は、2020年までにロボット産業を日本の土台を支える基幹産業に育てることを目指している。1950年代半ばから約20年間も続いた飛躍的な経済成長は、工場が産業用ロボットによって機械化されることで実現された。そこで蓄えた技術力を、工場以外の場面でも活躍するロボット開発に生かそうというわけだ。
 二足歩行で階段を上ったり、人間の声を認識してあいさつをしたり、繊細な音楽を演奏したり……。高度な機能を次々と搭載していく日本企業の技術力に国のバックアップが加われば、ロボットに生命や自由な意志、生殖機能を搭載する技術も実現すると思えるほどだ。

 ポーランド人のニコラス・コペルニクスが地動説を発表したのは1543年、英国人のチャールス・ダーウィンが著書『種の起源』で進化論を発表したのは1859年だった。地動説は、宇宙のあらゆる天体は地球を中心に回っているとする定説を覆し、進化論はあらゆる生き物は神が創造したという宗教的な定説を否定した。不動であるはずの地球が太陽の周りを回っていたり、人と猿の先祖が実は同じであったなどといった説明は、理屈の上では筋が通っていても、当時の人々にとっては、そう簡単に受け入れられるものではなかったようだ。

 医学や科学の進歩によって、今後も、人工的に生命を誕生させたり開発したりする技術が実現されていく。健康な人の臓器を患者に移植したり、動物の臓器を人間に移植することが現実に検討されていたりする様子を見聞きしていると、人型ロボット開発の進歩と歩調を合わせるように、人間が単なるパーツの集まりと考えられるようになっているような、不安な気持ちになる。
 他人の脳をそっくり移植され、「これでまた以前のように生活できますよ」と医師に告げられても、その後の自分が本当に自分自身であるのかには疑問を感じてしまいそうだ(Link)。長生きをしたいとは思うけれど、不老不死というロボットと同じ機能を手にしたら、1日1日の重みは今とは変わってくるし、それに伴って、価値観も全く違うものになるはずだ。

 何百年も前のこととはいえ「宇宙の中心は地球である」「人間は神によって創造された」などということを本気で信じている人たちがいたことを滑稽に思ったりする自分の中に、科学の世界では証明されたり受け入れられたりしていることでも、それを受け入れる気持ちにはなれない自分がいることに、最近気づいた。

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Last Update : 2004/10/27