祖母のアルバムを見て考えるデジカメの価値観

バリアフリー観察記2003年以降

祖母のアルバムを見て考えるデジカメの価値観

 祖母が若かったころのアルバムを見ながら、どれも、いい写真だと思った。玄関先や庭先で、近所で友人と、といった具合に、特別なものが写っているわけではない。だが、どの写真からも、一生懸命に写っている感じが伝わってくるのだ。

 僕が大人になってからも、カメラの前の祖母はいつも一生懸命だった。
 発売されたばかりのホームビデオを手にした親戚がレンズを向けたときは、「ほら、じっとしなさい!」と、動き回るひ孫を捕まえて正座したりした。写真に写ることが今より特別だった時代を生きた祖母らしい、と思った。

 回転寿司が寿司を気軽なものにしたように、フィルム付きカメラは、写真をだれもが楽しめるようにした。カメラがデジタル化された今では、フィルム代や現像代を気にすることなく、いつでも好きなだけ、写真を撮ったり撮られたりできるようにもなった。
 でも、そこに写っている自分の姿や自分が撮影している時の気持ちには、祖母のアルバムから感じられるような特別感や一生懸命さがない。

 レコードがCDやMDになって音質がクリアになり、ワープロがパソコンになって外国からでも電子メールが瞬時に届き、インターネットを使ったIP電話によって通信費が無料(Link)になり……。家電のデジタル化によって、新しい便利さが生まれている。物事が整理されてシンプルになって、スマートに生活できるようになっている。だが、そのことを快適だと感じている自分が、レコードのようなアナログな音を懐かしく思ったり、ずっと昔にもらった手紙を捨てられずにいたりする。
 学生時代の友人は、月に5万円の電話代を費やしながら遠距離恋愛を温めていた。通話料が安くなる時間帯まで気にしながら受話器を手にしていた彼らの様子を想像すると、なんとも甘酸っぱく切ない気持ちになる。現代のカップルが時間を気にすることなくIP電話で話し続けている様子を思い浮かべても、同じような気持ちになることはないだろう。

 できなかったことが簡単にできるようになったり効率や生産性が向上したりすることは、いいことに決まっている。お金をかけずに同じことができるならば、それに越したことはない。でも、気づかないうちに、失っているものがありそうだ。
 サプリメントでタンパク質やビタミンを十分に取ったとしても、肉や魚を食べたり、新鮮な野菜のおひたしを口にしたりしたときの満足感は得られない。単に便利で効率的であることで、気持ちが満たされるわけではない。
 写真を100枚保存しても1000枚保存しても重さが変わらないデジカメの価値観と、レコードや手紙のようなアナログなものに安心感や温かさを感じるアナログな価値観が、生身の自分のなかでせめぎ合っている。

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Last Update : 2005/09/25